性的指向? 性的不能? 上杉謙信が「生涯不犯」だったワケ。
「名代家督」のため作りたくても作れなかった?
性指向、宗教戒律、性的不能、いずれも違うとすれば答えはどこにあるのだろうか。
ここで見てもらいたいのが上杉藩の公式記録『上杉年譜』である。ここでは、一般に通りのよさそうな宗教戒律説を一切紹介せず、謙信が晴景家督を譲られた時、「晴景嫡男成長の時に至りては速やかに家督を渡すべし」と約束したことが記されている。晴景嫡男の後見役として一時的に家督を預かる中継ぎ当主だったとされているのだ。言わば「名代家督」にされたというのである。
こういう変則的な家督相続は戦国期に多かった。有名どころでは小鹿範満と今川氏親、上杉朝興と上杉藤王丸、織田信雄と織田秀信が、実例として挙げられよう。国人クラスならそれこそ無数の例がある。
長尾家の群臣は謙信に婚礼を勧め、理を尽くして説得を試みたが、承諾されなかった。「御身清浄にして自然と塵慮りを遠のけ、ついに晴景父子への節義を守られる」──晴景のために生涯不犯を通したというのである。もし妻帯して実子が生まれてしまったら、兄の子に家督を返上することが難しくなってしまう。
こうして「名代家督」の立場を堅持するため、妻帯を拒み、かつまたその決意を固めるために神仏へ戒律を求めた。毘沙門天に宣誓する前から色欲を避けていたのも、「三帰五戒」を授かったのもそのためで、「父子への節義」をより強固なものとするため、毘沙門天や仏法の戒律に頼ったのではなかろうか。
しかし謙信二十二歳の時、兄晴景が病死し、その子も元服前に早世してしまった。相次ぐ嫡流の死に直面した謙信は、すでに神仏の前で不犯を誓っており、いまさら妻帯することもできず、他家から養子を取らねばならなくなっていく。
謙信は、政治に無関心だからではなく、政治と婚姻の重さを理解していたからこそ妻帯を避けた。「生涯不犯」の真相は、このように理解していいであろう。